ソディックの歴史第2回 飛躍期~海外展開期

欧米での販売展開

完成当時の福井工場 (福井事業所)
Sodick Deutschland GmbH (ドイツ)
Sodi-tech EDM (イギリス)

完成当時の福井工場 (福井事業所)
Sodick, inc.(アメリカ)


ヨーロッパでの販売展開はソディックが設立して間もないころから試みていました。
しかし、放電加工機の需要が最も多い自動車メーカーが数多くある地域のため、すでにスイスの放電加工機メーカーが圧倒的なシェアを占めていました。
競合メーカーの基盤である地域での展開は苦戦が想定されましたが、既に開拓していた地域の景気が落ち込んだ場合でもカバーできるようにするため、そして日本国内の自動車メーカーの世界戦略に沿うためにも進出が必須となっていました。

まず、1979(昭和54) 年、国際工作機械見本市である第3回EMOショーに出展。そこで世界初となる電極を自動交換するNC付き放電加工機を出品したところ、多数の販売代理店の目に留まり、欧州での販売代理店を集めることに成功しました。
その後、1983(昭和58) 年、ドイツに欧州初の販売拠点である「ソディックヨーロッパ」を設立。
現在では、イギリス・ドイツに販売拠点とディーラー約20社を配備し、現地に密着した販売・サービスを行なう体制を築いています。

一方、アメリカへの進出はヨーロッパよりも先に始まっていました。
ソディック設立前から付き合いのあったシカゴのエレクトロツール社の親会社「UTI」から、ソディック製品の販売代理の話があったのが始まりです。
その後UTIと合弁会社を設立し、1980(昭和55) 年アメリカの国際工作機械見本市である「IMTS (シカゴショー) 」に出展。ヨーロッパと同様に販売拠点を設置し、全米各州に代理店を配備することに成功します。
現在では、アメリカだけでなく北米・中米の販売ネットワーク作りにも力を注ぎ、さらにその販路を広げています。

ソディック創業者 古川利彦会長インタビュー 欧米編

1979(昭和54) 年に第3回EMOショーに出展されたときの現地での反応は
いかがでしたか。
古川 ヨーロッパには放電加工機メーカーは沢山ありました。アジエ、シャルミーなど10社ぐらいあったのですが、当時の彼らはコンピュータで制御するというよりは、どちらかというと職人の手に頼るところが大きかった。
その中で、ソディックが初めて、自動的に動いて、自動的に側面をきれいにするような機械 (NC形彫り放電加工機) を出したのですから、反響は大きかったです。
ただ、当時は他社メーカーに比べて、値段が桁違いに高かった。
それでも、あるフランスの大手家電メーカーの人が、展示会で興味をもってくれました。展示会の期間中、ずっとテスト加工をやっていましたがそれでも終わらなくて。その後、担当者をヨーロッパに残して、3ヶ月かけてようやく相手が納得できるものができて、製品の購入につながりました。結局、それがヨーロッパでの足がかりになり、そこから、他社もNCを導入するようになりました。
NC放電加工機は、自動的に動くのがいいということではなく、ちゃんと精度よく加工できるということが大事なんです。自動的にやるから、すみずみまできれいに加工できるし、なおかつ、きれいな面で精度よくできるというのが、画期的でした。これが人の手でやるのと大きな違いでした。
1980(昭和60) 年にアメリカのIMTS (シカゴショー) に出展されました。
その時の現地の反応はいかがでしたか。
古川 ヨーロッパの展示会の場合は、来場客もヨーロッパ人が中心ですが、アメリカの場合は、日本の大手の技術者も見に来るんです。
当時は、その中にソディックが出展していると、大手電気メーカーの人たちは、まさかソディックが日本の会社だと思わなかったようで、日本にもすごいいいものがあるということを、みんなに、いっぺんに知ってもらうことができました。
IMTS (シカゴショー) のいいところは、有名になるのに一番早いんですよ。
IMTSに出すと、どのメーカーも日本国内から開発部長や工場長など、権限を持った人たちが見に来てくれて、ソディックの製品を知ってもらえる。
それで、日本に帰ったら部下に「ちょっとソディックの製品を調べてみろ」と、なるのです。
最初に出したときは、入口から一番奥の目立たない場所でした。それが今ではソディックは入口の前の一番目立つ場所に出展するようになりました。
ここまでくるのに、20年くらいかかりましたよ。徐々に徐々に入口に近づいてきた。だから、今後も出展はやめないつもりです。やめると、ほんともうすぐに後ろに行っちゃうからね。
1991年には販売拠点の「Sodick, Inc.」を、2000年には先端ITの集積地であるアメリカシリコンバレーに「Sodick America Corporation」を設立されますが、開発拠点を日本国内ではなく、シリコンバレーに置かれたのはどのようなお考えからだったのでしょうか。
古川 当時、国内にいる技術者と、シリコンバレーの技術者と比べたらね、情報量がはるかに少ないから、日本での技術の進歩が遅かった。
当時国内の技術者は今自分たちがやってるのが一番いいと思っていたので、考え方やスピードが違うということを、教えてもなかなか伝わりませんでした。だからもう、みんなでアメリカに行ってこいと。
しかし、猛反対にもあいましたし、あれだけ一所懸命やってきたのに、うちの社長 (※当時の古川社長) はちっとも理解してくれないと反発が大きかったです。
だけど、あのまま国内でやっていたら時代遅れになるのがわかっていましたので、シリコンバレーに会社を作りました。
日本からは研究部でも優秀だと思われた者を中心に行かせて、「時間がかかってもいいからやってこい」と言って送り出しました。シリコンバレーで優秀な技術者を雇い、最先端の技術を勉強させたところ、すぐに結果を出すようになりましたよ。
ソディックアメリカのご紹介
アジア、日本、アメリカの3極体制での開発、日本、タイ、中国 (蘇州・厦門) の4拠点での生産体制になっていくのですが、この構想はいつ頃からお考えだったのでしょうか。
古川 それは、当時から考えていました。日本だけの市場を追ってるわけにもいかないから、ヨーロッパの市場もアメリカの市場もちゃんとニーズをわかるようになってないといけないと思っていました。どこで作るとか、どこで開発するとかいう話じゃなくて、ユーザの気持ちがすべて伝わるような方法を考えた結果です。
そのために、大学と共同で勉強したり、最先端の技術はどんなものがあるかとか、世界中でいま行われている技術やニーズが把握できる体制を作りました。
常にお客様の声を聞いて次の手を考えてらっしゃるのですね。
古川 毎日お客さんに勉強させてもらってますから、次の手はそこから見えてきます。
 
第2回目のインタビューは飛躍期~海外展開期までのお話しをお聞きしました。
常に先の展開を考えての決断と行動力は、時代が後からついてきているという印象を受けました。
時には周りに理解されない状況でも、あるがままを受け入れて、歩み寄り、最後にはゆるぎない信頼関係を作り上げていくことで、着実に海外での展開を実現されてきた様子がうかがえました。
海外展開も「全てはユーザのニーズを知るため」 、というところに、日本のものづくりが今後も発展し続けていくための大事な基本を教わりました。
 

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