ソディックの歴史第2回 飛躍期~海外展開期

海外需要の高まり – タイに初海外工場を建設

タイ工場
タイ工場
生産ライン
生産ライン

お客さまの要望に沿った高い技術の製品を生み出すとともに、次第に海外での需要も拡大。
1986(昭和61) 年ごろには、製品の輸出比率が30%前後に増えていました。
しかし、そのころ日本では「プラザ合意」により急激な円高に見舞われ、円相場は1年で1ドル250円台から150円台まで上昇。輸出が増えていたソディックにとっても大きな打撃となりました。

そこに国内の2工場 (福井・加賀) では供給が間に合わなくなってきたことも重なり、海外での工場建設を検討するようになりました。アジア数ヶ国を廻り、利便性や国民性など総合的にタイが一番適していると判断しましたが、部品調達や製品の品質維持の観点から、社内では反対意見が大多数を占めていました。
それでも今後のソディックの成長に何が必要か、どんなビジョンで進めばよいかを考えると海外での量産体制を確立するのがベストである、とソディック創業者古川利彦は決断しタイへの工場進出を決めました。

1988(昭和63) 年11月、日本アセアン投資株式会社 (現・日本アジア投資株式会社) との折半出資にて、「現地法人 ソディック・タイランド」を設立。2年後の1990 (平成2) 年7月に初の海外工場となるタイ工場を竣工しました。部品のほとんどを現地で自社製作できるよう設備を整えたことで、国内同様の一貫製造・自動化設備を持つ最先端の工場となりました。

社員一丸となり努力を続けたタイ工場は、新しい放電加工機の設計から生産まで担う強い工場へと成長しました。設立15年目には従業員は1,000人を超えました。2011(平成23) 年には洪水にて工場は水没しましたが、その工場も完全に復旧し、更に数キロ離れた高台に2013(平成25) 年2月に第二工場を建設。
現在はソディックの売上約4割を生産するメイン工場として、月産200台の製品を生産しています。(2015年現在)

ソディック創業者 古川利彦会長インタビュー タイ編

1985年のプラザ合意後の急激な円高の影響を受けて、海外への工場建設を考え始められました。会長がタイへの海外進出を決断された理由を教えてください。
古川それは、日本ではもう作れなくなったからです。
まず、人手不足。それから、材料不足というのかな。結局、うちの福井工場や加賀工場ではもう目一杯で。
あのころは、人手不足が一番の理由だと思いました。
そして、これ以上増産するにはもう海外しかない。そういうことで海外でどこがいいか、ずっといろんな国を周って歩いたのですが、やっぱりタイが一番いいなと思いました。みんなダメと言いましたが、タイ人は人柄がいいんですよ。
2011年タイでの洪水後に会長が第二工場を作ろうと判断されたのは、
どういったところからですか。
タイ第二工場 古川従業員が1500人ぐらいいますからね。さらに協力会社を合わせたら2000人近い人間の仕事がなくなるわけです。そうは簡単に洪水被害にあったから工場を閉めるというわけにはいきません。洪水被害にあった工場を再生して、さらには翌年、もう少し立地のいい高台の場所に第二工場を作りました。これにより今まで以上に生産能力も上げることができました。
現在のタイ工場に対する会長のお考えなどあればお話しいただけますでしょうか。
タイ 古川タイはいいと思います。
というのは、私たちがいいって言っているのではなく、ユーザーがいいって言っているんです。と言うのも、タイは世界中の人が、ヨーロッパからもアメリカからも来やすいです。ヨーロッパからだったら、ちょうど10時間くらいかな。非常に来やすくて、ビザもいらない。
行こうかって言ったら、すぐに行ける。だから、機械の研修なども、
一日あれば行けます。日本に来るよりはみんな気軽に来ますよね。
また、みんなよく働いてくれますし、テロもないから安心ですよ。
ものづくりする上では、そういう場所が一番いいんじゃないんですかね。だから、どこかよそに作ろうという気はありません。

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